*襲名披露公演プログラム、上方浮世絵図録は現在いずれも一部1,500円(送料別)で販売しております。ご希望の方はブログ右側のフォームからお知らせください。
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今回の襲名披露公演では、プログラムにも全曲解説を掲載致しました。芸能、学術、評論、様々なご玉稿も頂いた豪華版です。
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そして、長年にわたって収集しておりました流儀に由縁のある上方浮世絵を、今回、一冊にまとめて、図録を刊行いたしました! 目次
七十枚程の作品を全てカラーで収めており、美しい仕上がりとなりました。これまで浮世絵学会でも発表させて頂いたことがありますが、浮世絵に残る舞踊や振りが現在も当流に伝わることに時間を超えた趣を感じる内容になっております。往時の舞ざらい会の刷り物や、大坂の芸妓達が歌舞伎や能の趣向で練り歩いた「練りもの」という仮装行列の上方絵も収め、風俗資料として眺めて頂くにも面白い内容かもしれません。
専門家の方々にもご執筆頂き、充実した一冊に仕上がったことを本当に嬉しく思っております。
宗家所蔵と銘打ってはおりますが、何かに導かれるように巡り逢えた作品も多く、私自身は山村の系譜の代表としてこのコレクションを一つ一つ積み重ねて後世に伝えてゆくのだという不思議な思いに改めてうたれる事さえある、そんな作品達なのです。
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上方の地で生まれた舞は、『上方舞』と呼ばれています。
上方舞=地唄舞(地歌舞)と思われる方も多いのですが、山村流の流祖は歌舞伎役者から振付師に転向しただけあって歌舞伎舞踊も有り、長唄・常磐津・清元(かつてはそれらをまとめて江戸唄と呼んでいました)の演目も残っています。
『上方舞』という呼称は、おそらく江戸からの目線によって呼ばれたものです。
上方の人にとっては、山村流は『舞』の流儀であり、あえて『上方舞』と呼ぶことはなかったと思います。
『舞』は、『舞浚え』などで座敷にて舞われたことで、『座敷舞』とも呼ばれました。酒宴席で芸妓が舞を勤めるようにもなり、埃を立てぬ様に半畳の空間でも舞えるようにと工夫されてゆきました。
『舞浚え』といっても、当初は豪華な衣裳と派手な演出で催されました。座敷も今のものとは規模も違っています。商いの街・大阪という土地柄、座敷は交流の場として重要視され、それに伴い「舞」も発展してゆきました。
画面は、江戸時代の山村流の『舞い浚え』の『摺り物』です。地唄・長唄・常磐津・端唄(上方唄)などの様々な演目が出されていることがわかります。
今日は、『東西名流舞踊鑑賞会』でした。無事、地歌(地唄)『傾城』を終えることが出来ました。
ご来場いただきました皆々様に厚くお礼申し上げます。
鬘だけで、5kg以上あったでしょうか?
既に首や背中が痛いです・・・。
江戸時代には「傾城」と呼ばれる演目だけでも40以上あったそうです。『芝翫傾城』と呼ばれる長唄の「傾城」を一度舞ってみたいと思いました。地唄(地歌)の「傾城」を本衣裳でやってみて、「地唄舞」(「地歌舞」)として無理があるようで、どうも、しっくりとこないからです。
本当に、舞台で舞ってみてしか掴めないことも結構多いのです。
明日は、13日の舞台の為に、「稽古」「稽古」です。
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山村流宗家公式ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
以前より開設しております公式ホームページに加え、このブログにおいても舞台活動予定等の情報を、宗家一門および山村会より折にふれて発信させていただこうと存じます。
さて、初回はブログタイトル『吾斗(ごと)ごのみ』について少しご紹介させていただきます。
『吾斗ごのみ』は山村流の流誌名として平成18年より使用しております。
「吾斗」とは「わればかり」との意味です。文化文政期の山村流の流祖・友五郎が晩年みずからをこのように称しており、名に負うとあって、当時は歌舞伎や舞ざらえの興行、花街の「練り物」と呼ばれた祭礼にと、随所において京阪随一の振付師としてめざましく活躍しておりました。「練り物」とは、芸妓達が様々な扮装をして街を練り歩く大阪の花柳界独自の行事でした。
画像の錦絵(上方絵)に流祖の名が「吾斗好」と残ることにちなみ、本誌を『吾斗ごのみ』と名付けました次第です。
流誌ともどもこのブログにおきましても、山村流や上方の歴史、一門の活動について少しでも皆々様に親しんでいただけますと何より幸いに存じます。
どうぞご愛読のほど、お願い申し上げます。
六世宗家 山村 若
上方絵 天保7年(1836)六月
「島の内ねり物 一夜官女 北森新 いく」「吾斗好」 大判錦絵一枚雪花楼 北英画
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