上方の地で生まれた舞は、『上方舞』と呼ばれています。
上方舞=地唄舞(地歌舞)と思われる方も多いのですが、山村流の流祖は歌舞伎役者から振付師に転向しただけあって歌舞伎舞踊も有り、長唄・常磐津・清元(かつてはそれらをまとめて江戸唄と呼んでいました)の演目も残っています。
『上方舞』という呼称は、おそらく江戸からの目線によって呼ばれたものです。
上方の人にとっては、山村流は『舞』の流儀であり、あえて『上方舞』と呼ぶことはなかったと思います。
『舞』は、『舞浚え』などで座敷にて舞われたことで、『座敷舞』とも呼ばれました。酒宴席で芸妓が舞を勤めるようにもなり、埃を立てぬ様に半畳の空間でも舞えるようにと工夫されてゆきました。
『舞浚え』といっても、当初は豪華な衣裳と派手な演出で催されました。座敷も今のものとは規模も違っています。商いの街・大阪という土地柄、座敷は交流の場として重要視され、それに伴い「舞」も発展してゆきました。
画面は、江戸時代の山村流の『舞い浚え』の『摺り物』です。地唄・長唄・常磐津・端唄(上方唄)などの様々な演目が出されていることがわかります。
今日は、『東西名流舞踊鑑賞会』でした。無事、地歌(地唄)『傾城』を終えることが出来ました。
ご来場いただきました皆々様に厚くお礼申し上げます。
鬘だけで、5kg以上あったでしょうか?
既に首や背中が痛いです・・・。
江戸時代には「傾城」と呼ばれる演目だけでも40以上あったそうです。『芝翫傾城』と呼ばれる長唄の「傾城」を一度舞ってみたいと思いました。地唄(地歌)の「傾城」を本衣裳でやってみて、「地唄舞」(「地歌舞」)として無理があるようで、どうも、しっくりとこないからです。
本当に、舞台で舞ってみてしか掴めないことも結構多いのです。
明日は、13日の舞台の為に、「稽古」「稽古」です。
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