【地唄(地歌)および地唄舞(地歌舞)について 1】
日本の芸術音楽は、劇場音楽として発達したものが多いのですが、上方において生まれた地唄(地歌)や筝曲は、家庭音楽・室内音楽として、発展したものです。これらは、検校(けんぎょう)・勾当(こうとう)とよばれた盲目の演奏家によって、伝えられるようになりました。内面に於いてのみ、精神の解放を得ることが可能であった彼らは、研ぎ澄まされた聴覚でもって繊細な音楽を作り上げました。
上流の家庭の婦女子は、つつましく、控えめであるべきだとする生活感情に、この音楽は、広く受け入れられるようになり、上方に住む者にとっては、土地の歌、すなわち地唄(地歌)と呼ばれました。江戸においても上方唄と称され流行しましたが、男性的な武家文化を尊ぶ江戸においては、次第に失われてゆきました。
地唄(地歌)には、家庭音楽として伝えられてきたものと、酒宴席において広く演奏された娯楽性の強いものと大きく二つに分けられます。
地唄(地歌)の短い曲(端歌)に振りをつけられたものが、地唄舞(地歌舞)であり、商いの街・大阪に集う人々をもてなすため、当時の交流の場であった座敷で広く舞われ、座敷舞とも呼ばれるようになりました。
家の稽古場で、地唄舞の下合わせ(リハーサル)をする時など、地唄が室内音楽だと実感し、木と紙と土とで出来た日本家屋の中での三味線や琴・胡弓の響きに幸せを感じる瞬間です。本日は、松竹座で菊原光治先生のリサイタルがあります。妹・光が「ゆき」を舞わせていただき、息子達が「六段の調べ」を演奏させていただきます。
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ブログ開設おめでとうございます。
思えばホテルオークラでの講座から始まり、大阪教室に変わって香川から月に一回通いもう5年強にもなりますでしょうか。転職して休みの都合で講座に参加できなくなった時に、お家元から「大阪でよければ土日でも稽古しているから、いらっしゃい」とお声をかけていただいたときは本当に嬉しかったです。遠いので私自身まさかこんなに長く続けられるとは思っておりませんでしたが、これも最初にご指導いただいたお家元や山村夫人のご尽力のおかげでございます。 山村流のお流儀に魅せられて入門しましたが、今ではお二人のお人柄に支えられ続けてこれたのだと思っております。この場を借りて感謝申し上げます。
舞の世界は本当に奥が深く、繊細で、洗練もされていて東京の「粋(いき)」とは違う「粋(すい)」という表現がとても合いますね。私は学生時代京都に住んでいましたが、むしろ京都のそれよりも大阪の芸能に粋な雰囲気を強く感じます。大阪にはたくさんの「ほんまもん」があるのにそれに気づいていない人が多くてもったいないと思います。
山村流が中心となってもっと伝統文化が見直されたらいいですね。
私も微力ながら少しずつ四国に広めたいと思っております。
2008/09/29 20:15 | N [ 編集 ]
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