今日は、楽正おっさんの本葬でした。(お師匠さんを大阪弁でおっしょさんとも呼びますが、我々は「お」の字を大きく発音しおっさんと呼びます)
大きいおっさん方(若しげ・若栄・若津也)から、少し年齢が離れて楽正おっさんまでが山村流の高弟と呼ばれる方々でしたが、おっさんが亡くなられて皆居られなくなりました。僕の子供の頃には既に大スターだったおっさんでしたが、流儀の中では大きいおっさん方を立てられ常に気を遣っておられただけに今頃はまた、向こうで気を遣っておられるのではなどと思っています。
一門や一般の方々、また、文化庁をはじめとして東京からも沢山ご参列頂き改めておっさんの大きさを感じました。竹本住大夫お師匠さん、西川扇蔵ご宗家、桂米朝師匠、井上八千代お家元、楳茂都梅咲お師匠さんからそれぞれりっぱなご弔辞をいただきました。
母の葬儀から始まって喪主や葬儀委員長を幾度も勤めました。自分の身に近すぎるとかえって涙も出ませんでした。若津也おっさんの時も、大叔母の亡くなった直後で泣いている場合ではありませんでした。葬儀委員長という立場であるのに今回ばかりは不覚にも涙をこぼしてしまいました。
きっと、おっさんと自分との関係は適度な距離感で繋がっていたのだなと思いました。
合掌
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お辛かったと思います
わかっていました。葬儀委員長としてのご挨拶の時、「あれ?御家元の声が変」と心の中で思いました。山村流の大事な方を見送ったのですもの。私も若津也師の時は涙を忘れ必死でした。今回は涙がほほを伝わりましたね。
2009/01/30 16:53 | ピノコ [ 編集 ]
次代に
コメントいつも有難うございます。豊中に住んでいた頃、吹田に引っ越されたおっさんから、突然麻雀のお誘い(強制)で呼び出されたことなど数々思い出され涙してしまいました。本当に大事にしていただきましたが、僕が「歌右衛門狂乱」を舞った直後にご自身でも別の会であててこられたり・・・。そんなおっさんが大好きでした。こんども、東京で舞いますと言ったら、「何を!」と思って頑張っていただけるのではと思ったのですが。「五耀会」の演目をおっさんの振付の「古道成寺」にしたのは、稽古に伺いたいといったら元気だしてくれはるのではと思ったのと、松竹座での旗揚げ興行なのでおっさんにあやかりたいと思って・・・。大きいおっさん方が繋いでくださった山村の舞を次の時代に繋げること。一門が結束してかからねばならないと思っています。
2009/01/31 01:46 | わか [ 編集 ]
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